2021年の春、国の重要無形民俗文化財に指定された上勝阿波晩茶に関わるなかで、その価値を実感する瞬間、それは、本当に地域の各家で、少しずつ違った作られ方、飲まれ方をしている点です。長く漬ける、短く漬ける、お湯の注ぎ方や、注いでから待つ時間。それぞれこだわりが異なり、みんな自分の晩茶が一番美味しいと言います。そんな様子を見ていて、私たちは上勝の出来るだけ多くの家の、多くの飲み方を取材していきたいと考えるようになりました。取材を始めて最初に頃に伺ったのは、撮影にご協力いただいた、上勝町に移り住んで10年以上の藤井さんと、その友人で、90年という年月を晩茶と共に生きてきた宮田サダコさんでした。
若いころから晩茶づくりを手伝って
宮田さんが17、8歳ごろには、近所の家々の茶摘みを手伝っていました。1950年頃とは、太平洋戦争が終戦を迎えて5年が経ったころ。山の上を米国の戦闘機が飛んでいた戦時中は、生産量を減らす必要があり、生き抜くことに精一杯だったと言います。何度も親と「今生の別れだな」と言い合いながらも、厳しい戦時中を乗り切った宮田さんは、上勝町で力強く生きてきたのでしょう。茶摘みが忙しい時期は、20日以上連続で手伝いに出かけたそうで、隣のおばさんとどっちが連続で働いた日数が多いか、競争しながら摘んでいたと教えてくれました。摘み手は、今よりもかなりたくさんいて、それぞれ助け合ってお茶づくりをしていました。
宮田さん「今の若い子たちは、便利なものがいっぱいあって、気軽に生きれて良いなあ。」
藤井さん「でも、あり過ぎるっていうのは、それはそれで窮屈なもんよ。」
撮影中聞いたこのくだりは、なにか印象に残っています。
昔は晩茶を売っていた
上勝阿波晩茶は、地域の中だけで生産・消費されているというイメージでしたが、実は戦後から地域の外に向けて販売されていたそうです。藁を編んで作った「こも樽」にいっぱいの茶葉を入れ、オート三輪で徳島市から買い付けにきた行商人に売っていたと言います。売った晩茶は市街地で販売させていたということで、古くから周辺の人にも知られていたとのことでした。
ダスづくりの伝承 – 作れるものは作る
当時は農業や日常生活で、自分たちの手で作れるものは何でも作っていました。炭、茶葉を入れるためのこも樽、そして、茶摘みのときに収穫した茶葉を入れながら移動できる「ダス」と呼ばれる容器など、身近にある素材を加工して作っていました。宮田さんは、特にこの「ダス」づくりの名人で、その技術は、篠じいと呼ばれるおじいさんに教え、今は篠じいさんが若い人々にその作り方を教えているそうです。こちらも取材できたので、近日公開します。
宮田さん家は濃い晩茶
宮田家では、しっかり長い時間漬けた濃い茶葉を使ってお茶を淹れます。桶に茶葉を漬けて発酵させる期間は、平均15日程度。比べて宮田さんは、倍の30日、短くても25日ほどは漬けられるそうです。長く漬けられた晩茶は、特有の風味が強いものになります。強い風味は「クセ」と言い換えることもでき、晩茶の風味に慣れていないと、苦手だと感じてしまう人も少なくはないそうです。逆に「クセ」がある方が好きだと言って、繰り返し飲んでくれる人もいます。宮田さんは、生ま育った家では薄い晩茶だったのですが、自分で作るようになってから濃いものが好きになり、濃く漬けるようになったそうです。この茶葉をやかんに入れ、上から沸騰したお湯を注ぎ、2~3分置いて色が染み込んできてから飲むそうです。私(取材者)もいただきました。確かにクセはありましたが、想像よりもずっと飲みやすかったです。
「今年はわたしも手伝うわ」
足腰が痛くなり、少し前からもう茶摘みは止めたという宮田さん。藤井さんは、「じゃあ今年は私も手伝うわ。前宮田さんのお茶摘み手伝ってくれた若い子も、宮田さんの家のお茶摘みだったら毎年来たいって言ってたよ。」と宮田さんに伝えると、「じゃあ今年もやってみるか。」と、穏やかに、元気に言いました。人口減少に伴い、少しずつ晩茶づくりを行う人々も減っている上勝町ですが、晩茶づくりを未来に残していこうとする動きは、いたるところで見られます。